失敗の履歴書 (プロフィール) 小学生篇

こんにちは。

癒しのアロマ、整体、リンパデトックスをご自宅&ホテルで。
マッサージマニアが選ぶ新宿区の出張マッサージ stwoty(ストゥティ)の中西です。

知人にプロフィールをもっと詳しくしたほうが良いよとのアドバイスを頂いたので、
これから少しずつ書いていきたいと思います。

失敗の履歴書というのは、振り返るとあまりにも私の人生、笑える失敗が多かったのでつけてみましたにひひ

1977年生まれの蟹座のA型

福井県の越前町という越前ガニが有名な町で,
10m後ろは山、100m前は海という自然に恵まれた漁師町の、米屋の三女として生まれる。
4人兄弟の3番目。3女で弟が1人。

覚えていないが、親戚の叔母さんによく、
「まだ両足でもフラフラなのに、片足を上げて、おねえちゃんに『泣かしちゃっかぁ(泣かしてやるぞ)』ってよく立ち向かってった」
と言われるくらい、気が強い赤ん坊だったらしいショック!
他にも溝におちた私を近所の叔母さんが抱っこして、引き上げてくれようとしたのを手を払って、「一人でできるもんプンプン」と怒っていたそう汗

マッサージとの出会い

物心ついたときにはもう、日課のように父に足踏みマッサージを施す。
小学2年の頃には、中学でバレー部に入った姉の筋肉痛をもみほぐしたり、スクールバスのおじさんの肩もみをして喜ばれる。(私の特等席は運転席の後ろで、スクールバスは3年生までしか乗れないのに、私はおかげで?6年までのせてもらっていました(笑))

ここで、人に喜ばれるといいことがあると学ぶ。

輝かしい小学生時代

スポーツも勉強もでき、毎学年学級委員に選ばれたり、音楽会では指揮者に。
面倒見もよく、先生からの信頼も高く、学校外のリーダーシップ研修などに選ばれるなどの優等生ぶり。高学年の頃の通知表は、ほぼオール5(図工だけ4の上だった)

でもたまにビックリするくらいのボケをかまし、先生をあわてさせる。
*あるとき、教育委員会が見に来る先生の授業発表か何かの時に、私に当てとけば安心だと思ってさしてくれたのに、私は、「身体障害者」という言葉を、「新体操会社」という名の「体の不自由な人を助ける会社」だと思い、「もっとドンドン増えたらいいと思います」とみんなの前で堂々と発表して先生を慌てさせたガーン

この頃の将来の夢はブティックの女社長(言葉の響きが格好良かった)か、OLに。(アフター5という言葉がはやってあこがれた)
あこがれの人は津田梅子。
あだ名は何故かババちゃんでした。(多分男の子を馬にするくらいのお転婆娘だったので、鬼婆から来たんじゃなかったかな・・)

そんな私の当時のコンプレックスは

★おねしょしょぼん

私のおねしょマットが、各親戚の家にあるというくらいのオネショ魔で、一生治らなかったらどうしよう、みんなにバレたらどうしようと本気で悩む。修学旅行のときも治っていなかったら、行かないと真剣に悩むも、なんとか執念?でその直前で治す汗

★好き嫌いが激しくて給食がたべれなかったこと

肉、野菜、魚、全般嫌いで、カレーもルウだけ。お味噌汁もスープのみ。食べれるモノの方が少ない位で、貧血なのは、心臓病のクラスメートと私だけ。先生に栄養失調気味だと言われ、母親に「食べさせていないみたいで恥ずかしい」と叱られる。
当時は給食が食べれない子は、掃除の時間になっても残されていたが、私は嫌いなものを食べるとトイレで吐いてしまうという体質(本当は食べたくないから手をつっこんで吐いていた)のため、特別にもって帰っていた。
*あるとき、カバンの奥から出した辞書が変に腐っているので何かと思ったら、もって帰るのを忘れた給食が出てきたことがガーン(よくいじめられたかったなと今更不思議汗

★学校机の引き出しの中が汚いこと。

机の引き出しの中が他の人に比べて汚いのが本当にコンプレックスだったが、どのように片付けていいのか全然わからず、いつもこっそり机を開けていた。通知表の先生のコメントは、毎年毎回、たくさん褒められているのにかかわらず、忘れ物と引き出しのことは書かれ続けていた。(部屋が汚いのは友達にバレないからまだ気にしていなかった)

そんな明るかった?小学時代から一転。暗黒の時代へ・・・

長文・駄プロフィールをお読み頂きありがとうございます。

続きはまた来週にでもパー